Sunday, March 19, 2006

ドキュメンタリーとフィクション

いくつかの映画を見た。

ホテル・ルワンダ
ツチとフツのルワンダ内戦を描いた、『シンドラーのリスト』のアフリカ版と言われる。あらすじは以下を参照。
http://www.hotelrwanda.jp/

秀作というべきなんだろう。酔っ払ったジャーナリストの「世界の人々はあの映像を見て-”怖いね”と言うだけでディナーを続ける」というセリフは真実を得ているとしても、この映画において虐殺を描く手法に問題があるように思える。いや、そもそもドラマを語る必要があったのか。ラジオで「ある民族はゴキブリだ」という放送が行われる。そんな単純なプロパガンダに乗せられ、100日で100万人が殺される虐殺が起きるはずがない。多国籍軍が介入すれば虐殺を防げたという結論を導く点もいささか単純すぎやしないか。その回答は何か他の大事なものを隠蔽しているに違いない。それはさておき、フィクションとドキュメンタリーの違いは、「顔の強度」にあるのではないかと考えた。ジェームズ・ナクトウェイの写真に収められた顔と俳優ドン・チードルの顔は違う。あまりにも違いすぎて並置は当然ながら、対置すらもできない。 フィクションとしてのドン・チードル、ドキュメンタリーとしての頬の傷。
http://www.jamesnachtwey.com/

ランズマンの『ショアー』という映画がある。ユダヤ人虐殺=ホロコーストを証言インタビューだけで探ろうとした作品。虐殺の生き残り、ナチス、見殺しにした隣人=ポーランド人たちへと問いを発する。9時間半に及ぶインタビューは執拗さを増し、何があったのかを語らせようとするランズマンの執拗さを前に語る者は沈黙する。それを観る者には「何もそこまでしなくてもよいのに」という不快感さえ催しかねないのだが。やがて観念したかのように静かに語り始める。ある者は言いよどみながら。時には仕事の手を休めずに。 語りに耳を澄ませれば、その手法の正しさを確信すると共に、「そこまでしなくては語られることのなかった事実」に観る者は驚愕するばかりだ。そして、ここでも「顔の強度」について思いが巡り始める。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000244RS0/249-6952609-6752340

ルワンダの虐殺においても、ランズマンと同様の手法で撮られる必要があるように思う。多数の証言を積み重ねる。ある一人の英雄=ドン・チードルの物語である必要がどこにあったのか。むしろ、そのような態度は全く取るべきではないのだ。何が起こったのか、という問いは常に当事者、その場所に向けられるべきものであり、フィクションとしての限界はここにある。証言できない映像を羅列し、物語を作ってしまう作業とは一体何なのか。そういえば、ゴダールによれば、シンドラーの妻はスピルバーグから一銭も与えられないままにブラジルのどこかに住んでいるらしい。

しかし、何かを語り始めるには未だに時間が過ぎていないのは確かだ。ランズマンの『ショアー』は1985年に公開された。ルワンダ虐殺の記憶は、まだ記憶にすらなっていないのだ。21世紀の映画史における最大の敗北とは、アフガンの裸足の農民を米軍が爆撃する姿を捉えることができなかったことだと考える私のような人間の闇を、『ホテル・ルワンダ』、及びそのエンド・ロールで歌われる以下のラインは照らすことはできないだろう。

「アメリカ連邦は可能なのに、なぜアフリカ連邦は不可能なんだ?イギリス連合王国は可能なのに、なぜアフリカ連合王国は不可能なんだ?」

むしろ、こう問うべきだろう。
「なぜアフリカは『連合王国』に、もしくは『連邦』になる必要があるのか?」と。

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