Saturday, April 29, 2006

動物

「人間たちはお互いを夢中で殺しあう。生存者がいるだけでも驚きだ」ゴダール『アワーミュージック』

20世紀ほど人が人を閉じ込め、人が人を殺した時代はなかった。いつだって思うことだが人を殺すのは馬鹿げているし、できれば自分は誰も殺したくないと思う。イエスはだれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したというのだから、こんなことを考える自分にはエラソーに「人を殺すな」とか「戦争をやめろ」と言う資格など全くないと思う。

しかし、それでも殺してはいけないと思うし、たとえ誰かをを殺した者も裁いた末に殺してはいけないと思う。私は死刑に反対する。これはキレイゴトかもしれない。ただ私が知っているのは、理念がなければ現状を追認するしかないということだけだ。というより、人間の攻撃性は絶対に除去できない。人はいつでも加害者意識よりも被害者意識を持ちたがるので、自分の攻撃性には気づかないのだが。人間だって、動物の一種なのだ。しかし不思議なことに、動物は間違っても、核爆弾を落としたり、一致協力して特定の人種をガス室送りになどしない。動物たちは温暖化すると分かっていて石油を馬鹿みたいに燃やたりもしない。巷にあふれる人間賛歌には反吐が出てしまう。逆に人間はもう少し動物を見習うべきだと思う。

Monday, April 17, 2006

瘋癲

今日は環境問題の解決方法について。いきなりだが答えは非常に簡単で、みんなでホームレスになればよろしい。消費をしなければよいのである。例えば、大勢のみなさんで電力を買うと原子力発電所が必要になり、チェルノブイリのように事故が起こってしまう可能性がある。日本中の自動販売機を撤去すれば、原発をいくつか閉じることができるのは有名な話だ。木造の家を買って建てなければ、熱帯雨林を乱伐する必要もなくなる。(カンボジアの伐採はひどかった。木を切りすぎたせいで赤茶けた土が見える大地になった。今ではアンコールワット群でしか見ることができない立派な木の、その殆どの伐採に加担したのは日本企業だという、ということはあなたのお家の大黒柱はカンボジア生まれの可能性があるということで、その昔はその木の下でカンボジア人が神様に祈ったり、好きな女と逢引した可能性もあるということだ、まあどうでもいいかそれは)

消費しないためには、カネを稼がない、つまり働かなければいいのだ。カネがなければ消費のしようもない。ニートがなんとかしなければならないとよく聴くが、この高度消費=環境破壊社会でニートを問題にする必要がどこにあるのか疑問に思う。むしろ彼らはエコだといえよう。自慢じゃないが俺もこの二ヶ月ほどニートやしね。環境問題というが、それは問題のすり替え及び本質の隠蔽に過ぎず、実のところ環境問題は「経済」問題と呼ぶのが正確な表現のように思う。環境破壊しなければ経済成長が望めないという有様に、呆れ果ててみてもいいかもしれない。

冗談で書いているのではない。働かないというのはひとつの自発的行動だ。その結果自分に何が起こっても引き受けるという覚悟が伴えば。それをストライキと呼んだり、ある商品を目的を持って買わないことを呼びかけること、これをボイコットという。高度消費社会で革命を起こしたければ、ボイコットをすればいい。インド独立のためにガンジーが多用した戦術だ。

人間は労働するから不幸なんだ、とアンドレ・ブルトンが言ったことがある。最近はマスコミで過剰にボランティアが持てはやされている。2007年に退職する人が多く、生き甲斐を求めてボランティアに参加する人がいるらしい。ところで、その昔、晴れやかな顔でボランティアに励む人たちがいた。ナチス体制下のドイツ人である。どうもドイツ人たちは、この時代が楽しくて仕方のなかったようで「おじいちゃん、どの時代が楽しかった?」と聞くと、「そりゃ第3帝国さ」と答える人が多いのだ。あの時代は生き甲斐があったという。同じ時間の中で6000000人のユダヤ人がドイツ人に殺されていたのに、楽しかったなんてメチャクチャだと今なら思えるが、そんなのは後知恵だ。残念ながら、ボランティア労働に勤しみ、晴れ晴れとした顔で映っているドイツ人青年の写真が手元にある。みんなニコニコしている。日本でも、そうだったんだと思う。みんなニコニコしていたに違いない。多数のアジア人は日本兵に泣かされていた時に。

ガス室で殺して、かまどで焼いて、灰を川に捨てる。組織的集団虐殺は、工場の流れ工程にそっくりではないか。これも強いられた、無償という意味でのボランティア労働によって支えられた。これを手伝わなければナチスに殺されたわけだから、逆らうのは難しかった。俺はいつも自分ならどうしていたか考えるが、死肉を食ったと思う。実際、収容所内では腹が空きすぎて死んだ人の肉を食っている者もいたらしい。これからの「経済」問題の進展で俺が一番怖いのは、こういうことも起こり得るということだ。当たり前だが、一度起こったことは何回でも繰り返す可能性がある。

つい最近、ボランティアがうっとうしくてたまらんという女の人の話が聞けた。彼女は車椅子の障害者なのだが「自分が気持ちよく信号を渡っているときに、勝手に車椅子を押さんといてほしい。車椅子はわたしの身体の一部やから、勝手に触るのは痴漢と変わらん」と言っていた。毒舌ぶりが痛快で、俺は笑ってしまった。彼女によれば「ボランティアの人はありがとうと言ってほしくて、結局のところ他人に認められたくて仕方がないのだ」ということだ。そうだ、その通りだ、と思った。彼女は感情労働を強いられているんじゃないか。サービス業の必須労働、ありがとうと言ってニコッと笑うことが苦痛なのだ。彼女のように考える人もいるので、横断歩道では気をつけた方がいいかもしれない。押していいですか、と一声掛けるのが無難であろう。

ちなみに瘋癲はフーテンと読んで、「頭のおかしい人」というのが本来の意味で、転じて、「定職につかずブラブラしている人」のこと。それがフリーターとかニートとかホームレスと呼ばれてしまうんだからなんだかなあ。そんなんほっとけや、というのが俺の本音。

Sunday, April 09, 2006

酔っ払ってくれ、コーラン

イスラームは飲酒を禁じている。しかし飲む奴は飲む。アフガンに行った時、カブールで友人の誕生日を祝う機会があった。男だけが集まって、ビールを飲み始めた。ハイネケンの空き缶が散らばり始め、次第に強い酒も飲む。その酒は外国のパスポートを持っている者なら、ISAFの基地にある売店で手に入れることができる。

場も盛り上がった頃、酔って、ある男が暴れ始めた。その場のリーダー格の男だ。男は酒瓶片手に、何かを必死で叫んでいた。仲間に取り抑えられた。男の顔は幸せには見えなかった。男は険しい顔で何かを睨んでいた。何を?

なぜ人は飲まずにはいられないのか?かくいう俺もアルコール中毒だった時もある。無茶苦茶な飲み方をした。吐くまで飲んだ。吐くために飲んだ。独りで。とことん記憶を失うために。そうやって実は自分を忘れるために。

オーストラリアで、とある夫婦の家に泊まった。クリスマス、年越しを過ごした。俺たちは毎日飲んでいた。ある晩、女がシャンパンを飲みすぎた。俺は階下のベッドで寝ていたが、階上では口論が始まった。女が夫を口汚く罵っている。同じセリフを何回も叫ぶ。同じ汚いセリフを何回も何回も。夫が反論するたびに。夫はラジオの広告会社を経営する金持ちだが、この夫婦は幸せには見えなかった。この女にはときに眠れない夜がある。

あの男にも、あの女にも、きっと忘れたいことがあるに違いない。そして、いつも忘れることに失敗している。

Friday, April 07, 2006

コーランにジョークが書かれていたならば

フランス人のイスラム教徒の友達からメールが来た。彼女はモロッコで伊達君子の通訳をしたこともある日本語ペラペラの女性なのだが、強烈なイスラム教信者である。かねてから、俺もアフガニスタンやパキスタン、イランなどのイスラム教国を旅したこともあり、イスラムについて勉強せねばならないと思ったから、コーランを買ってみた。コーランは岩波文庫で上、中、下巻出ていて、井筒俊彦という人が訳したものだ。しかし、コーランを手に入れるのにもいくつかの書店を周れなければならず、日本ではイスラムなどは海の向こうのものであり、全くその生活に関係のないものと捉えられているのだろう。

しかし、コーラン。読む気にならない。仕方ないので古本屋巡りを続け、同じ著者の『イスラーム生誕』という本を手に入れた。200円だった。これがよい。まず文章にリズムがあって読ませる。畢竟、文章という物は書き手の熱が入っているものなら、必ず面白いのだ。まずは、砂漠の民であるベドウィンたちの描写から入る。彼らがいかに現世享楽的な暮らしをしていたか。奪い、殺し、姦淫し、酒を喰らう。そんなベドウィンにも美学はある。寂寥の砂漠にただの血しぶきを求める。強烈な快楽を求める。人生の儚さを憂い、陶酔を求める。

ああこの瞬間を楽しまん
やがては死の訪れる身にしあれば
(詩人アムル・イブン・クルスーム)

そこへムハンマドが現れた。彼は強烈なビジョンを従えていた。

Wednesday, April 05, 2006

列島の子供

日本に帰ってきたら、子供が殺されるニュースばかりでうんざりする。自殺者が3万人というのも気が滅入るが、鎌田慧の『家族が自殺に追い込まれるとき』を読んで、日本社会の根本的な欠陥に気が付いた。やりたくないことはしない。やりたいことをする。これができないのだ。仕事が多すぎての過労死などは、死ぬか辞めるかの選択ならば仕事を辞めればいい。しかし多忙さの中で、いつしか生きる欲望も死んでしまうのだろうか。

ある友人が、希望溢れる子供を希望をなくした大人が殺すのだ、と言っていて、そうかもしれないと思った。しかし、希望をなくした子供を希望をなくした大人が殺す、ということもありうるのかもしれない。もしそうならオシマイだが。生れ落ちてきた意味がない。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』とつぶやくしかない。神よ、何故に我を見捨てたもうや、と。青山真治のこの映画はレミング病という自殺したくなる感染病が流行る近未来ニッポンが舞台だ。ある音楽を聴くと自殺したくなる衝動が止むという。

http://www.elieli.jp/top.htm

ところで、子供たちは何を考えているのか。案外ノーテンキなのかもしれない。