Tuesday, February 06, 2007

シュプレヒコールと、ひとりのための言葉

「帰れ!帰れ!」

ぼくらは、叫んでいた。そのなかで、ぼくは、ときたま同調した。してしまった。

どうも、違和感がある。シュプレヒコールはただの威圧でしかない。支援者は、それをすることによって、つながるだろう。しかし。。。うーん、ぼくが試みたのは、節を変えることだった。というより、何を言ってもずれてしまう自分。勝手に、節は変わった。

ぼくは、ひとりひとりの人間の確立こそが、まずは必要なものではないかと考える。

市の職員と対峙する、ぼくら。ぼくらは誰に向かって、言葉を発しているのだろう。市の職員に対してだろうか。市の職員の誰に対して?自分の正義のため か。それとも?

言葉は、それ自体の、純粋さをもつ。そうあってこそ、誰かの心に届く。これは、ひとつの仮定として。

個人に対して、言葉を集積するべきだ。ぼくは、そう考えた。沈黙をせねばならない階級差は括弧に入れて。壁を越える言葉。というものについて、ぼくは考えていたのかもしれない。

ぼくは、そのシュプレヒコールには、感情を乗せることができなかった。感情を言葉に乗せるには、どうも、沈黙という作業が必要な気がした。ただ、じっと見つめる。怒りが沸点に達するのを待つ。

ぼくは、市の職員を嘲笑することができない。隣人と組むスクラムの温かさを感じながら、そんなことを考えた。

愛の世紀。「こんな言葉ではいけないのよ」と、パリのとある橋上で語った結核を抱えた女性。それを聞くユダヤ人の男。彼の名前は、エドガーといった。

名前はどこにいったのだろう?ひとりひとりの顔はさておき?

ひとりひとりが違う。それがないと、全く社会というものは、つまんねえ。つまんねえ、となったら、 それは終わりの始まり。弱いぼくの心は、逃げることを考え始め た。

どうして、こう、なにもかもが、つまらないのだろう?なぜだ?

つながるための言葉とは?言葉は誰に向かって、発せられるのか?そもそも大衆は、或いは市民は存在するのだろうか?

あなたの名前を、まずは聞かせてほしい。

ぼくの胸を打ったのは、野宿者ひとりひとりの顔と、つぶやくような言葉、それから叫びだった。

闘うための言葉と、ひとりのためのことば。こぼれ落ちた歌。

心の中を流れる、だれのためでもないことば。

生きるということ。


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