Monday, April 17, 2006

瘋癲

今日は環境問題の解決方法について。いきなりだが答えは非常に簡単で、みんなでホームレスになればよろしい。消費をしなければよいのである。例えば、大勢のみなさんで電力を買うと原子力発電所が必要になり、チェルノブイリのように事故が起こってしまう可能性がある。日本中の自動販売機を撤去すれば、原発をいくつか閉じることができるのは有名な話だ。木造の家を買って建てなければ、熱帯雨林を乱伐する必要もなくなる。(カンボジアの伐採はひどかった。木を切りすぎたせいで赤茶けた土が見える大地になった。今ではアンコールワット群でしか見ることができない立派な木の、その殆どの伐採に加担したのは日本企業だという、ということはあなたのお家の大黒柱はカンボジア生まれの可能性があるということで、その昔はその木の下でカンボジア人が神様に祈ったり、好きな女と逢引した可能性もあるということだ、まあどうでもいいかそれは)

消費しないためには、カネを稼がない、つまり働かなければいいのだ。カネがなければ消費のしようもない。ニートがなんとかしなければならないとよく聴くが、この高度消費=環境破壊社会でニートを問題にする必要がどこにあるのか疑問に思う。むしろ彼らはエコだといえよう。自慢じゃないが俺もこの二ヶ月ほどニートやしね。環境問題というが、それは問題のすり替え及び本質の隠蔽に過ぎず、実のところ環境問題は「経済」問題と呼ぶのが正確な表現のように思う。環境破壊しなければ経済成長が望めないという有様に、呆れ果ててみてもいいかもしれない。

冗談で書いているのではない。働かないというのはひとつの自発的行動だ。その結果自分に何が起こっても引き受けるという覚悟が伴えば。それをストライキと呼んだり、ある商品を目的を持って買わないことを呼びかけること、これをボイコットという。高度消費社会で革命を起こしたければ、ボイコットをすればいい。インド独立のためにガンジーが多用した戦術だ。

人間は労働するから不幸なんだ、とアンドレ・ブルトンが言ったことがある。最近はマスコミで過剰にボランティアが持てはやされている。2007年に退職する人が多く、生き甲斐を求めてボランティアに参加する人がいるらしい。ところで、その昔、晴れやかな顔でボランティアに励む人たちがいた。ナチス体制下のドイツ人である。どうもドイツ人たちは、この時代が楽しくて仕方のなかったようで「おじいちゃん、どの時代が楽しかった?」と聞くと、「そりゃ第3帝国さ」と答える人が多いのだ。あの時代は生き甲斐があったという。同じ時間の中で6000000人のユダヤ人がドイツ人に殺されていたのに、楽しかったなんてメチャクチャだと今なら思えるが、そんなのは後知恵だ。残念ながら、ボランティア労働に勤しみ、晴れ晴れとした顔で映っているドイツ人青年の写真が手元にある。みんなニコニコしている。日本でも、そうだったんだと思う。みんなニコニコしていたに違いない。多数のアジア人は日本兵に泣かされていた時に。

ガス室で殺して、かまどで焼いて、灰を川に捨てる。組織的集団虐殺は、工場の流れ工程にそっくりではないか。これも強いられた、無償という意味でのボランティア労働によって支えられた。これを手伝わなければナチスに殺されたわけだから、逆らうのは難しかった。俺はいつも自分ならどうしていたか考えるが、死肉を食ったと思う。実際、収容所内では腹が空きすぎて死んだ人の肉を食っている者もいたらしい。これからの「経済」問題の進展で俺が一番怖いのは、こういうことも起こり得るということだ。当たり前だが、一度起こったことは何回でも繰り返す可能性がある。

つい最近、ボランティアがうっとうしくてたまらんという女の人の話が聞けた。彼女は車椅子の障害者なのだが「自分が気持ちよく信号を渡っているときに、勝手に車椅子を押さんといてほしい。車椅子はわたしの身体の一部やから、勝手に触るのは痴漢と変わらん」と言っていた。毒舌ぶりが痛快で、俺は笑ってしまった。彼女によれば「ボランティアの人はありがとうと言ってほしくて、結局のところ他人に認められたくて仕方がないのだ」ということだ。そうだ、その通りだ、と思った。彼女は感情労働を強いられているんじゃないか。サービス業の必須労働、ありがとうと言ってニコッと笑うことが苦痛なのだ。彼女のように考える人もいるので、横断歩道では気をつけた方がいいかもしれない。押していいですか、と一声掛けるのが無難であろう。

ちなみに瘋癲はフーテンと読んで、「頭のおかしい人」というのが本来の意味で、転じて、「定職につかずブラブラしている人」のこと。それがフリーターとかニートとかホームレスと呼ばれてしまうんだからなんだかなあ。そんなんほっとけや、というのが俺の本音。

No comments: