Thursday, March 27, 2008

80000人と4000人、1825日

ある数字を見て以来、ベッドに横たわり、憂鬱が訪れると、考えてしまうことがある。3月20日、つまり一週間前に、5年越しのひとつの語りえぬものについてである。イラク人の死者が8万人、翻ってアメリカの死者は4千人。この数字について考え続けている。イラク人がイラク人を殺し、アメリカ人がアメリカ人を殺したこともあるだろう。それでも、およそ20倍の差がある。単純な疑問が生まれる。これは戦争なのだろうか。馬鹿げている。私にはたんなる理性の敗北にしか見えない。

仮に日本で、5年の間に40人が毎日殺されたなら?人は日々何を思って、未来に何を期待して、生きていけばいいのだろう。狂気すら麻痺してしまう、この世界で。

言葉はかくも無力なのかと、打ちひしがれる。

Wednesday, October 31, 2007

地球温暖化、あれこれ

最近、『不都合な真実』の影響なのか、地球温暖化について対策を講じるべきだとの記事や特集を見かけるが、一度この番組を見てもらいたい。アル・ゴアは今でこそ、ノーベル平和賞をもらって賞賛されている。が、クリントン政権のときは、京都議定書を弱体化させて張本人らしい。冷ややか目で彼のパフォーマンスを眺め、地球の気温を下げる努力をすべし。

http://democracynow.jp/stream/070518-2/

上記のリンクで特筆すべきは、バイオ燃料の及ぼす影響について。話者の環境運動家によれば、車を食わせるか、人を食わせるの問題になるという。たしかに、その通りだ。エタノールを作るのに、とうもろこし等の穀物が必要なので、とうもろこしの値段が上がっているようだ。こんなのは、少し考えれば分かりそうなことなのに、新しい技術というだけで目が眩んでしまうのだろうか。たんに、アメリカの馬鹿でかい農家が、しこたま儲かりそうな話なだけなんだろうけども。人が食えなくなっちゃうのなら、電力なんて要らないはずだ。嗚呼、本末転倒なり。

先日、読んだ記事によると、オーストラリアは今、地熱を利用した電力の開発に邁進しており、上手くいけば、100年は確実に持続する電力供給源になるらしい。今年末には、その見通しが出るようだ。クリーンで、100年。夢のような話だけども、こういう技術革新がなければ、もう絶望するしかないところまで、状況は差し迫っている。カリフォルニアは燃え続けている。オーストラリアの草原も、雨が降らず乾ききっている。そして、燃える。

さておき、なぜにここまで、温暖化対策が遅れたのだろう。結局、温暖化を研究する科学者に圧力がかかっていたらしい。以下を参照されよ。

http://democracynow.jp/stream/070228/index.shtml

地球がなくなることはないだろう。だけども、人類はもう無理かも。取り得る最善の選択をしないといけない状況で、なぜ危機を選ぶ?

そんなことよりも、とばっちりを食った、他の生物たちがあまりに悲しい。

Friday, May 11, 2007

たったひとつの、この今のために

今、夕日が沈む。たったひとつの、二度とは戻らない夕日が。

当たり前すぎて、誰もが知っていて、しかしながら、忘れていることは、今日、この時間は二度と訪れることはない、たったひとつの時間なのだ。

明日、自分が死ぬとする。では、今、自分は何を成すべきか。いつも自分に問いかける。

Saturday, March 10, 2007

巡り会う

今日は、素晴らしい本を見つけた。アルフォンソ・リンギスの『信頼』という本。購入はしなかったが、強烈な印象を受け、気になったので、少し調べてみた。これは必ず読まなければならない、そういう運命のような出会いがある。

あなたが誰かと巡り会うように。

>>>
http://www.rakuhoku-pub.jp/special/01lingis.html

アルフォンソ・リンギス
Alphonso Lingis (1933-)

 リトアニア系移民の農民の子どもとしてアメリカで生まれる。ベルギーのルーヴァン大学で哲学の博士号を取得。ピッツバークのドゥケーン大学で教鞭をとった後、現在はペンシルヴァニア州立大学の哲学教授。
 世界のさまざまな土地で暮らしながら、鮮烈な情景描写と哲学的思索とが絡みあった著作を発表しつづけている。
  メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』、レヴィナス『全体性と無限』、『存在するとは別の仕方で、存在の彼方へ』、クロソフスキー『わが隣人サ ド』の英訳者でもある。邦訳書籍に、『汝の敵を愛せ』、『何も共有していない者たちの共同体』(以上、小社より刊行)、『異邦の身体』(河出書房新社)、 『信頼』(青土社)がある。

 アルフォンソ・リンギスの経歴については、『汝の敵を愛せ:Dangerous Emotions』の翻訳者[中村裕子氏]からの質問に対して、リンギス自身が次のような回答を寄せてくれたので、それをそのまま紹介する。

  「私の両親は、ヨーロッパのリトアニアからの移民だった。彼らは農民であったので、私は、シカゴ郊外の農場で生まれ育った。私は、ベルギーのルーヴァン大 学で、哲学の博士号を取得した。ピッツバークのドゥケーン大学で6年のあいだ教鞭をとった後、ペンシルヴァニア州立大学で教え始めた。
 毎年、最 後の授業が終わるとすぐに、私は他国に赴く。アメリカの制度では、大学教授は7年ごとに1年間の長期休暇が与えられるのだが、私はその休暇のたびに他国で 過ごした。「旅をした」というのは、正確ではない。ある一つの国を選んで、3、4ヶ月のあいだ、または長期休暇のあいだずっと、そこに暮らしたのである。 最初は、フランス、イタリア、ドイツ、ハンガリー、ノルウェイ、フィンランドといったヨーロッパ諸国で夏を過ごした。その後、私は、アフリカ、アジア、 オーストラリア、南アメリカ、そして南極大陸にずっと大きな興味を抱くようになった。
 本拠地として、メリーランド州ボルティモア郊外の丘陵地にある2エーカーほどの土地に、小さな家を持っている。」
リンギスの代表的著作

Excesses : Eros and Culture, State University of New York Press, 1984.
Libido : The French Existential Theories, Indiana University Press, 1985.
Phenomenological Explanations, M. Nijhoff ; Kluwer Academic Publishers, 1986.
Deathbound Subjectivity, Indiana University Press, 1989.
The Community of Those Who Have Nothing in Common, Indiana University Press, 1994. (『何も共有していない者たちの共同体』野谷啓二 訳、洛北出版、2006年)
Abuses, University of California Press, 1994.
Foreign Bodies, Routledge, 1994. (『異邦の身体』松本潤一郎・笹田恭史・杉本隆久 訳、河出書房新社、2005年)
Sensation : Intelligibility in Sensibility, Humanities Press, 1996.
The Imperative, Indiana University Press, 1998.
Trust, University of Minnesota Press. (『信頼』岩本正恵 訳、青土社、2006年)

これに加えて、『世界文学のフロンティア第1巻:旅のはざま』に、リンギスの「プラ・ダーレム、死の寺院」(管啓次郎訳、岩波書店)という一文が収録されている。
▼ 以下、リンギス『汝の敵を愛せ』より、「解説」を転載します。

世界と出遭う処へ

リンギスの導入のために
田崎英明

現象学――始まりへの旅

  アルフォンソ・リンギスの思考の基礎にあるのは、メルロ=ポンティやレヴィナスの英訳者という経歴からも分かるように、現象学である。現象学は、オースト リアの哲学者であるエドムント・フッサールによって創始され、20世紀の哲学潮流を、分析哲学とほとんど二分するといってもいいほどに多くの哲学者を惹き つけ、豊かな成果を生み出してきた。また、哲学にとどまらず、精神医学や心理学、社会学、あるいは文学理論においても「現象学派」が形成されるまでになっ ている。

 現象学というと英語圏でいうところの「大陸哲学continental philosophy」(つまり、イギリス以外のヨーロッパの哲学)の主流を成すように思いがちだが、実際には、アメリカ合州国も、哲学者の割合からいう と主流とはいえないかもしれないが、ユニークな現象学研究の伝統を持っている。現在、アメリカでの現象学研究、特に、ハイデガー研究で中心的な位置を占め るのは、ジョン・サリスJohn Sallisだろう。プラトン、ドイツ観念論、ニーチェ、ハイデガーなどについての研究書の著者であり、ハイデガーやディコンストラクションに関する数多 くの論集の編者、それに何よりも、雑誌『現象学研究Research in Phenomenology』とインディアナ大学出版局の叢書「大陸思想研究Studies in Continental Thought」の編集者として英語圏現象学の成果を世に送り出す役割を果たしている。サリスは哲学を「根源的なものへの回帰」と捉え、根源的想像力につ いての理論を展開している。

 ニーチェ、ハイデガー、ディコンストラクションのテーマ系はアメリカ現象学のひとつの軸を形成している。サ リスのほかにも、デヴィッド・ファレル・クレルDavid Farrell Krellやジョン・カプトJohn Caputoの名を挙げることができる。ハイデガーのニーチェ書の英訳者として知られるクレルは、近年、ハイデガーにおける生の概念、さらには、初期ロマ ン主義からニーチェにおける生と病の連関、それに、記憶の問題を扱っている。カプトは(たしかイエズス会士であったと思うが)、そもそもハイデガーと神学 (トマスやエックハルト)の関係から出発したが、現在ではだいぶデリダに接近、デリダの最近の「神学化」に一枚噛むかたちになっている。

 また、実験現象学やテクノロジーの解釈学を提唱するドン・アイディーDon Ihde(最近は「サイボーグ・フェミニズム」のダナ・ハラウェイDonna Harawayともコラボしている)ももっと注目されていい思想家だろう。
*   *   *   *
  現象学派はそのモットーとして「事象そのものへ!」を掲げる(ただし、谷徹[2002]によればこのままの表現はフッサールの著述には見られないとい う)。考えてみれば、これは不思議なものいいだ。私たちはすでにさまざまな事物と係わり合い、交渉を持っているではないか。私はいま、コンピュータのキー ボードを叩いている。あなたは、椅子に腰掛け、机の上にこの本を置いてこのページを開き、いま読んでいるところだ。すでに私たちは事物と出遭ってしまって いる。事物はそこにある。いまさらどうやって事物のところになど行けるというのか、私たちは、すでに事物の場所に来てしまっているというのに。

  私たちは、事物に触れ、それを使いこなし、あるいは、掴み損ねたりするとき、何ものでもない中性的なモノを相手にしているのではない。事物は、世界におい て、すでに事前に解釈され何ものかとして理解されている。事物との遭遇の瞬間は、ちょうど自分自身の生誕の時に立ち会えないのと同様に、つねにすでにやり 過ごされてしまっている。私たちはつねにすでに(幾許かは)事物に馴染んでしまっている。始まりは取り逃がされてしまった。したがって私たちは始まりを掴 もうとするなら、あたかもひとつの旅ででもあるかのようにそこへと向かっていかなければならない。

 フッサールの後の世代、ハイデガー、 レヴィナス、メルロ=ポンティら(大雑把にではあるが「実存的現象学」と括ることができるだろう)は、生活世界の現象学を発展させた。生活世界の記述とし て標準的なものは、ハイデガーが『存在と時間』で展開した道具連関としての世界の分析である。私たちがそこに生き、経験する世界(生活世界)においては、 事物はまずさしあたり道具というかたちで意味づけられ、連関させられ、配列されている。そこへと身体的存在である私たちは投げ出され、あらかじめそれら事 物との交渉の中に、半ば埋もれているのである。この生活世界の記述を実存的現象学は試みる。

 だが、道具としての事物との関わりを記述す ることがどうして「実存的」なのか。「実存」とは、事物とは異なる、この私たちの特異な存在の様式のことを意味しているというのに。道具の使用のうちに埋 もれている限りは、私たちは「誰でもない誰か」「誰でもいい誰か」として存在している。たとえば、私たちが言語を習得することができるのは、それが誰のも のでもないからであり、誰かに排他的に所有されていないからである。そして、その習得の瞬間は、私たち自身も誰でもない存在となっている。私たちが何かの 道具を使えるようになる、熟達していく過程では、誰のものでもないものを誰でもないものが用いるという様相が不可避に伴っている。

 その ような「誰でもないもの」は道具連関に織り込まれている限りで幾許か道具化している。自分自身であれ他者であれ、道具として、何か(外在的な)目的のため に利用できる(自分の手の届かないところにあるものを取ってもらったり、自分のノルマ達成のためにうまく丸め込んで不要なものを買わせたり、あるいは、快 楽のために誘惑したり)。しかし、個々の道具ではなく、道具連関そのものが何のためにあるのかと問うなら、事態は一変する。道具連関全体の目的、それは中 世であれば神の栄光を讃えるため、とでも答えられたであろうが、今日ではそうはいかない。もちろん、一応の回答は用意されている。私たちの社会では目的と なって手段とはならない存在のことを、カントに倣って「人格」と呼ぶ。

 カントが「人格」と名づけて事物と区別しようとした差異が、今日 「実存」と呼ばれるものと関係している。私たちの存在を道具連関から切り離し、(それ自身が享受の対象である)目的の地位にまで高めること(理想化ないし イデア化)、私たちが誰でもないことから引き剥がし、自分自身へと生成させることが問題なのだ。私たちは自分自身であるわけではない。自分自身になるの だ。その契機を、ハイデガーは「私の死」に見たし、レヴィナスやバタイユなら「他者の苦しみ」や「他者の死」に見る。

 リンギスもこのような実存的現象学の伝統に属している。そして、リンギスがとりわけ愛する思想家たち、ニーチェ、メルロ=ポンティ、レヴィナス、ドゥルーズに共通するのは、身体と(何かに対する欠如として理解されるのではない)欲望への関心であることは注目に値する。

 以下ではリンギスのテーマのいくつかを簡単にスケッチしてみよう。

身体図式――事物の重さ

  メルロ=ポンティが『知覚の現象学』で用いた「身体図式」という概念は、リンギスにとって要中の要ともいうべきものになっている。サルトルが意識と事物を きれいに二分し、それ自体では意味を持たない事物に、いわば、外から意味を付与する意識の作用(事物への、あるいはむしろ、事物に対する超越として意識の 志向性が理解される)を重視して想像力論に向かったのに対して、メルロ=ポンティは、純粋な意識でも純粋な事物でもない、「生きられた身体」の両義性に定 位する。そしてその中核に「身体図式」は位置している。

 身体図式を持つことは、私たちの心の中に自分自身の身体を外から眺めて作り上げ たイメージを据え付けることではない。私たちは心の中に世界のレプリカを作って、そこに自分のミニチュアを配して、初めてさまざまな事物と関われるという ものではない。そのような表象主義が問題なのではなくて、むしろ、身体図式は私たちの経験が理解可能であるということ、つまり、意味を持つことの根本にあ るものだ。私たちの知覚においては、事物は時間を通じて一貫した持続性を示すし、また、空間的にも、周囲から区別されるまとまりを持つ。このような知覚に おける統一性を、カントは図式という概念で説明した。カントでは感性と悟性との綜合を媒介する構想力の働きとして図式が捉えられているが、メルロ=ポン ティは身体の作用を綜合の根底に見る。私の身体の作用と知覚の対象とは互いに見え隠れする関係にある。ものの現われ方を一定に保つには、一定の姿勢を保た なければならない。ちょうど映画で、画面が、それが映し出している対象についてだけでなく、カメラの位置にいる人物についても教えてくれるように。

  そればかりではない。身体のコミュニケーションとでもいうべき次元が、この身体図式によって開かれている。身体図式は産出された結果としてのイメージや表 象ではなく、それらを産出するダイアグラムである(リンギスはダイアグラムという言葉を『監獄の誕生』のフーコーや『千のプラトー』のドゥルーズ=ガタリ から取ってきている)。私たちが他者の表情や身振り、あるいは、歩き方や立っている姿勢というもののうちに理解するのは、身体図式、ダイアグラムなのであ る。メルロ=ポンティによれば、意味というのは、まず心の中にあってそれから表情や身振りに翻訳されるのではないし、私たちがそれらのものを理解するの も、もとの心的表象に再翻訳してからではない。意味は表情や身振りなどの表現のうちに孕まれている。私たちは自らの身体をそれらの意味に差し出して、それ を受肉する。いわば、一種の擬態によって、ドゥルーズやベルクソンなら「ヴァーチャル」と呼ぶであろう身体運動的な次元において意味が生み出される。

  私たちが真っ先に理解するもの、それは他者の身体図式なのだ。しかも、リンギスにとって身体図式は何よりも姿勢を生み出す図式である。自らの重みを担い、 それに耐え、どう折り合いをつけているか、である。だとすると、身体図式は人間に限られない。それどころか、知覚をもっていそうな存在にも限定されない。 日の光をできる限り浴びようと枝を広げる木の傍らを通り過ぎるとき、せり出した崖の下を歩くとき、あるいは、朽ちかけ、傾いた古い廃屋を見かけたときな ど、私たちは自らの身体のうちに緊張を感じている。およそ事物というものは、たといそれが幾何学的図形のような理念的存在であってもその重みないし軽さを 持っており、したがって一定の姿勢を保っている。手を伸ばして掴んだものが(無意識のうちに)思っていたよりも重かったり軽かったりして不意をつかれたよ うになってしまうことからも分かるように、私たちは実際に事物と関わりあうに先立って、その重みを理解し、先取り的に模倣し、私たちの身体のうちで再現し ている。道具であれ、自然的存在であれ、私たちは、まず、その姿勢のダイアグラムとのあいだでコミュニケーションを持つのである。
エレメンタル――享受とコミュニケーション

  レヴィナスは『全体性と無限』の第二部「内面性と家政」で、エレメントの現象学とでも呼ぶべきものを展開している。エレメント(日本語訳は元基)は享受さ れる。それは、享受の対象であるということさえできないほどに享受という行為、いやむしろ状態と切り離せない。身体図式が存在者の一種の骨格を成すのだと したら、エレメントはそれよりも深い。エレメントは存在者と存在者の区別、そして、存在者と存在との区別にも関心がない。

 たとえば初め て訪ねた町で、私たちはのどの渇きを癒すためのビールを手に入れるよりも前に、空腹を満たすための屋台を見つけるよりも前に、あるいは、今夜の宿に疲れた 体を横たえるベッドを確保するよりも前に、暑さや湿気や喧騒やにおいといったものに貫かれ、満たされる。私は町の空気を享受する。さまざまな事物を道具と して使いこなす前に、私の身体図式が他の身体図式を模倣するよりも前に、熱や湿り気や音のうちに浸りこむ。そこでは内と外の境界は存在せず、私の身体と空 気の暑さや湿度や騒音とを区別することはできない。道具を用いて何かの目的を実現して得られる満足よりも手前に、目的も対象も手段も、そして、主体もなし に、享受は存在する。だが、この享受に私たちはとどまっていることはできない。私たちはすぐに手段―目的という道具連関のうちに差し挟まれ、労働と交換と コミュニケーションの世界に巻き込まれれる。

 『全体性と無限』の日本語版の訳者あとがきで合田正人は『全体性と無限』を「エコノミー・ ポリティック批判」とする見方をしめしている。リンギスもまた、レヴィナスのエレメント=享受論を、クロソウスキーやドゥルーズ=ガタリへと接続していき ながら、エコノミー・ポリティック批判を展開しているのである。

 レヴィナスの『存在の彼方』の中の身代わりをめぐる諸章は一種の記号論 をなしているのだが、おそらく、そこで展開されている「自らを記号とする」ことが、クロソウスキーの倒錯論(リンギスは「クロソウスキーの『わが隣人サ ド』を英訳している)や生きた貨幣をめぐる議論へとスィッチされ、さらにドゥルーズ(『意味の論理』のシミュラークルとコミュニケーションの問題、そし て、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』)へと連なっていく。

 もちろん、レヴィナスの身代わり論は自己と他 者とのあいだの関係の非対称性、私だけが「他の代わりに=他のために」という責任を負っており、これを誰かと交換できないということをいうために立てられ ている議論だ。だが、自己と他者の二者関係ではなく、自己が他者の身代わりとして第三者の前に召喚されるというこの構図は、『悲劇の誕生』以来のニーチェ の記号論=コミュニケーション論と通底するものである。死においてのみ、死にゆく者と生き残る者、殺す者と殺される者の絶対的非対称性においてのみ真正の コミュニケーションが成り立つと考えるバタイユや、死の非人称性のもとに語る声の探求者ブランショ、あるいは、自分が自分自身の身代わりであるような存 在、すなわちシミュラークルにおけるコミュニケーションを追究するクロソウスキー。こういったサドとニーチェを思考の出発点に置く人々と、リンギスの歩み は交差する。
顔、表面、命法――自らを記号とすること

 私たちは自分自身になる。私たちが最初に従う命令は「法に従え」ではなく、「法に従う存在たれ」というものだ。この命令への服従を通して私たちは自分自身になるし、世界は秩序あるものになる。だが、この服従が自律的なものなのか、他律的なものなのかが問題になる。

  カントは、道徳法則を意志が従うべき格率をあたかも自然法則であるかのような普遍性たらしめることに求めた。たとえば「うそをついてもよい」というような 格率はこの普遍化のテストに耐え切れず、排除される。このとき個人は普遍性の見本(タイプ=範型)となる。他者に対して自らを記号とするのである。それに 対してニーチェは、同じく意志に関する選別の原理ではあるが、普遍化ではなく、永遠回帰を持ち出してくる。「すべてはすでに無限回繰り返されているかのよ うに意志せよ。」

 カントにとって、ひとは服従を通して自らに法を与え、自律性を獲得する。ひとは誰でも自らの生の主人たることを願って いる。誰でもが人格であり、世界市民という普遍的なタイプを体現しうる。これがカントの前提である。ニーチェが直面するのは別な事態である。多くの人は自 ら奴隷たることを望んでいる。意志そのものに能動と受動(あるいは能動と反動)があるのである。したがって、タイプはいくつも存在することになる。少なく とも、主人だけではたりないのである。系譜学はこのタイプの歴史的変遷を扱う。しかも、ニーチェにとって、意志の自律は暴力的に叩き込まなければならな い。カントは「啓蒙とは何か」で、啓蒙のモットーとして「敢えて賢かれ」を掲げたが、ひとがどのようにして自らの理性を自律的に使いこなす、彼のいう「成 人」状態に達するのかは謎めいたまま放置されていた。ニーチェなら「暴力によって」と、啓蒙の秘密を直ちに暴露しただろう。

 意志の自律 に先立って他なるものに曝されること自体はカントも知っていた。だが、意志の自律そのものが他なるものの優位のもとにのみ実現されるということを明らかに したのは、何よりもニーチェの功績だろう。自律的主体を作り上げる暴力の問題は、ニーチェから、一方でアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』へ、ま た、他方では、フーコーの規律訓練論へと展開されていく。さらに、それらともずれるかたちでレヴィナスの提唱する「第一哲学としての倫理学」、存在論に先 立つ他者論がニーチェの問題圏を引き継いでいく。

 ここでカントにとってのタイプとニーチェにとってのタイプの意味するところの違いを見 ておこう。少なくとも、ニーチェにとってカントのタイプ論が飽き足らないのは、カントがタイプを導き出す普遍化を一種の一般化として、いいかえるならば、 視点の交換を通じて視野を拡大し、なるべく多くの個体を包含できるようなルールを確立することとして捉えている点にある。ニーチェにとって問題なのは、 ディオニソス、アポロン、ソクラテス、ツァラトゥストラ、あるいは、ハムレットやドン・キホーテといった「文学的形象=人物」が表現する普遍性である。こ れらの形象はそれが特異的singularであればあるほど普遍的である。ドゥルーズによれば永遠回帰において肯定されるのは生成の結果としての個体では なく生成そのものである。生成は前個体的であると同時に集合的である。つまり、それはダイアグラムのコミュニケーションなのである。私たちの生は、ちょう ど個体発生が系統発生を反復するといわれるのに似て、歴史上すべての固有名=生成のダイアグラムを包摂している。私たちはみなハムレットであり、ドン・キ ホーテであり、オイディプスであり、ディオニソスである。それは、これらの固有名を足して平均したような仕方でそうなのではない。私たちは、ある逡巡の瞬 間、すでに無数に反復されたハムレットとなる。私たちはつねに、ある固有名から別の固有名へと飛び移る。この移行こそが(変容としての)情動 affectionであり、ニーチェの文体はこのような情動に貫かれている。

 カントにとって反復=模倣すべき他者は一般化された他者と しての市民であったが、ニーチェのこのようなパースペクティヴからは、反復すべきダイアグラムは他の市民にとどまらない。それどころか反復されるべき固有 名は狭い意味で歴史上のものにかぎられない。それは自然史/自然誌にも拡張される。自然種名、あるいは地理学的、地質学的な固有名も、私たちに反復を命じ る固有名、ダイアグラムなのである。ある場所のエコロジー、それも固有名であり、それを構成するさまざまな事物の表面、そのざらつきや輝きや硬さやぬめり は、私たちにそれに従うことを強いる命令でもある。すべての事物の表面は顔である。それは、私たちに何ごとかを命じるのだ。
動物になる、世界になる――グローバリゼーション

  世界化。世界はどのようにして世界になるのか。ひとびとを「世界市民」へと仕立てあげる暴力は2001年の9月11日以降、ますますあからさまに軍事力と の結託を強めてきている。新自由主義はすべての人間を労働力という相のもとで、記号化し、平等にし、交換可能にしようとしている。それに対して、リンギス は、等価交換など考慮にいれることのない純粋な贈与を動物性と呼ぶ。自分を拷問したかつての政府軍兵士を釈放したニカラグアのサンディニスタや、ペルーの 日本大使公邸を占拠したゲリラたちに、また、先進国から来た観光客の食べ残しで辛うじて生きていくブラジルのストリート・チルドレン、そして、先進国の中 産階級の観光客であるリンギスにナイフを突きつけて財布を奪ったブラジルのストリート・ギャングの少年たちのうちに、そういった贈与を見て取る。ストリー ト・ギャングの少年たちはその動きの見事さや、ナイフの冷たい感触を通してリンギスにエロティックな悦びを与える。それは決して財布の金との交換を形成し はしない。過剰な贈与なのだ。

 生きること、それは何よりも享受であり、贈与である。交換なき生、動物になること。動物的生は世界が貧し いとハイデガーはいう。今日の資本のグローバル化は、貧しい世界ばかりでなく、世界の貧しさの中で死にゆく生を生み出している。だが、この貧しさこそがす べてを交換可能にする資本のダイアグラムに対抗する私たちの過剰(への)生成であることをリンギスは教えてくれるのである。
文献案内 ~現象学入門~

  いままで現象学にほとんど触れたことがないという人にとって導入のための文献を挙げる。個人的には新田義弘『現象学とは何か』(かつては紀伊國屋新書、現 在は講談社学術文庫)が愛着があるし、いまでもフッサールに関するよい入門書であるといえるだろう。さらに現在では谷徹『これが現象学だ』(講談社現代新 書、2002年)を挙げることができる。これらの本からは本当に学ぶことができる。それから、哲学よりも文学や芸術に馴染んでいる人には、ホフマンスター ルやムージルといった同時代のオーストリア文学とフッサールの関わりを通して現象学を描き出したF.フェルマン『現象学と表現主義』(木田元訳、講談社学 術文庫)がとっつきやすいだろう。
 また日本も現象学研究の盛んな地域であるので、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティのどれをとっても専門的研究は、もともと日本語でかかれたものも外国語からの翻訳も事欠かないので実際に手にとって読みやすいものを選べばよいだろう。

◆ アメリカ現象学
John Sallis
Spacings - of Reason and Imagination, University of Chicago Press, 1987
Echoes : After Heidegger, Indiana Univ Press, 1990
Chorology : On Beginning in Plato's Timaeus, Indiana Univ Press, 1999
Force of Imagination : The Sense of the Elemental, Indiana Univ Press, 2000

David Farrell Krell
Daimon Life : Heidegger and Life-Philosophy, Indiana Univ Press, 1992
Infectious Nietzsche, Indiana Univ Press, 1996
Architecture : Ecstasies of Space, Time, and the Human Body State Univ of New York Press, 1997
Contagion : Sexuality, Disease, and Death in German Idealism and Romanticism, Indiana Univ Press, 1998

Don Ihde
Technology and the Lifeworld : From Garden to Earth, Indiana Univ Press, 1990
Expanding Hermeneutics : Visualism in Science, Northwestern Univ Press, 1999
Bodies in Technology, Univ of Minnesota Press, 2001

◆ 身体論
  リンギスが参照する身体論の多くはメルロ=ポンティが『知覚の現象学』で用いていたゲシュタルト心理学系のものだが、興味深いのは、彼がメルロ=ポンティ 以後の仕事で参照するのがアフォーダンス概念の提唱者であるJ.J.ギブソンの仕事であるということだ。「身体図式」論を豊富化するためには、現代の認知 の理論、とりわけ、佐々木正人を中心として展開されているギブソンの生態心理学を継承する仕事とつき合わせていくことが生産的だろう。

ニコライ・ベルンシュタイン『デクステリティ 巧みさとその発達』工藤和俊訳、佐々木正人監訳、金子書房、2003年
多賀厳太郎『脳と身体の動的デザイン――運動・知覚の非線形力学と発達』金子書房、2002年
エドワード.S.リード『アフォーダンスの心理学――生態心理学への道』細田直哉訳、佐々木正人監修、新曜社、2000年

◆ 顔、表面、命法
 E. レヴィナス『全体性と無限』(合田正人訳、国文社、1989年)の第三部「顔と外部性」、ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』(河出書房新社、宇野邦一他 訳、1994年)の「7 零年―顔貌性」、それに、佐々木正人『レイアウトの法則――アートとアフォーダンス』春秋社、2003年。
 リンギスの 事物の命法を展開したものとしてはリンギスの弟子に当たるSilvia Benso, The Face of Things : A diffferent side of ethics, State University of New York Press, 2000

◆ 動 物
 英語圏(合州国に限らない)の現象学ではエコロジーや動物の権利の問題圏と現象学との対話も見られる。

H. Peter Steeves (ed.), Animal Others : On Ethics, Ontology, and Animal Life (Suny Series in Contemporary Continental Philosophy), State Univ of New York Press, 1999
Cary Wolfe, Zoontologies : The Question of the Animal, Univ of Minnesota Press, 2003
Charles S. Brown, Ted Toadvine, Eco-Phenomenology : Back to the Earth Itself (Suny Series in Environmental Philosophy and Ethics), State Univ of New York Press, 2003
John Llewelyn, Seeing Through God : A Geophenomenology (Studies in Continental Thought), Indiana Univ Press, 2003

◆ 世界と出遭う
 リンギスのラテンアメリカへの言及を理解するためには、ラテンアメリカ思想研究の崎山政毅(彼もまたリンギスの愛読者である)による『サバルタンと歴史』(青土社、2001年)をぜひとも読んでほしい。

ジルベルト・ディメンスタイン『風みたいな、ぼくの生命――ブラジルのストリート・チルドレン』神崎牧子訳、現代企画室、1992年
小倉英敬『封殺された対話――ペルー日本大使公邸占拠事件再考』平凡社、2000年
歴史的記憶の回復プロジェクト(編)、『グアテマラ虐殺の記憶――真実と和解を求めて』飯島みどり・新川志保子・狐崎知己訳、岩波書店、2000年
エリザベス・ブルゴス『私の名はリゴベルタ・メンチュウ――マヤ=キチェ族インディオ女性の記録』高橋早代訳、新潮社、1987年
解説者紹介

田崎英明 (たざき・ひであき) TAZAKI Hideaki

1960 年生。専門はセクシュアリティと「政治的なるもの」の理論。著書に『ジェンダー/セクシュアリティ』(岩波書店,2000年),『売る身体/買う身体: セックスワーク論の射程』(編著,青弓社,1997年),『歴史とは何か』(共著,河出書房新社,1998 年)などがある。論文に「無能な者たちの共同体」(『未来』連載中,未來社)など。

Monday, February 26, 2007

シドニー、もうひとつの顔

オペラハウスだけが、シドニーじゃないですよ。以下のリンクは必見です。

http://www.brushtail.com.au/july_06_on/chain_up_cheney.html

シドニー、嗚呼、早く帰りたいなあ。

>>>
Chain up Cheney! Bring Hicks home!Sydney anti-war marchers defy police ban and reclaim the streetsA Possum News Network ExclusiveWords and pictures by Gavin Gatenby
Thursday 22 February 2007

This evening 1500 anti-war demonstrators overcame a strong police presence and, after a half-hour confrontation with the NSW riot squad and mounted police marched to the US Consulate to protest against US Vice-President Dick Cheney's visit to Australia and the five-year imprisonment of David Hicks in Guantanamo Bay.
An unexpected last-minute ban by NSW Police (no doubt at the instigation of the NSW Labor Government) turned what would have been a routine demonstration into a major test of the right to march.
The demonstrators prevailed after hundreds filtered through the police cordon around Town Hall Square. The remaining demonstrators bottled up in the square then voted to disperse and move in small groups to the US Consulate in Martin Place. Faced with the impossibility pursuing hundreds of small groups of demonstrators through Thursday night shopping crowds, the police relented and allowed the demonstration to proceed to the US Consulate.

Thursday, February 15, 2007

サッカー狂い

今日は、自分がどれだけサッカーを愛しているのか、ぶっちゃける。

それは、こんな記事を読んだからだった。


http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/feature/news/20070215k0000e030012000c.html

シャラポワ:国連開発計画の親善大使に就任 

14日、ニューヨークの国連本部で、国連開発計画(UNDP)の親善大使に就任、10万ドルを寄付するシャラポワさん=ロイター 【ニューヨーク坂東賢治】女子テニス世界ランキング1位のマリア・シャラポワさん(19)=ロシア=が国連開発計画(UNDP)の親善大使に就任し、14日、国連本部で記者会見した。シャラポワさんはウクライナのチェルノブイリ原発事故(1986年)の復興事業に10万ドル(約1200万円)を寄付したことを明かし、「世界にお返しできることがプロ選手である素晴らしさです」などと語った。

 シャラポワさんは事故の翌年、シベリアで生まれた。現場に近いベラルーシに住んでいた両親が胎内被ばくを心配して移住したためだった。シャラポワさんは会見で「チェルノブイリのことが心に残っていた。貧困と機会の不足が地域の若者にとって深刻な問題だ」と話し、現場を訪れたいとの希望も示した。

 UNDPの復興事業は事故の影響を受けたウクライナ、ベラルーシ、ロシアにまたがって実施されており、シャラポワさんの寄付は学校やスポーツ施設の建設など若者向けに使われるという。UNDPの親善大使にはサッカーのロナウド選手(ブラジル)やジダンさん(フランス)、女優の紺野美沙子さんらが就任している。

毎日新聞 2007年2月15日 10時19分 (最終更新時間 2月15日 10時51分)



これを読んで、ジダンのことを思い出した。以下、wikipediaより抜粋。



ジネディーヌ・ジダン:

温和な性格
敬虔なイスラム教徒であり、パーティーなど華やかな生活を好まない。 インタビュー等で見られる、はにかみ屋で静かな話し方から、謙虚で控えめな性格と評される。 チャリティー活動も熱心に行っており、人望も厚く、ピッチの外では非常に温厚なことで知られている。 また、子供時代からのアイドルは、元マルセイユのエンツォ・フランチェスコリ(ウルグアイ代表)。子供にエンツォの名前を付けるほど尊敬しており、選手として初めて対戦した1996年トヨタカップではユニフォーム交換をし、非常に感激した様子であった。

2006 FIFAワールドカップ(ドイツ)決勝戦
現役最後の試合となったイタリアとの決勝戦延長後半5分、相手DFマテラッツィの胸元に頭突きを喰らわせて一発退場。その直前に、ジダンとマテラッツィは2,3の言葉を交わしており、両者ともその内容について沈黙を続けたため、世界中で様々な憶測が飛び交い、マテラッツィによる人種差別発言の有無も取り沙汰され、社会問題となった。7月12日夕方(仏時間)フランスのTV局カナル・プリュス及びTF1によるインタビューでジダンは事件後初めて沈黙を破り、「母と姉を傷つけるひどい言葉を繰り返された」と語った。また自身の行為について、「20億、30億人が見守る中での私の行為は許されないもので、特にテレビを見ていた子供たちに謝りたい」と謝罪の意思を述べたものの、「W杯決勝の、しかもサッカー人生の終了10分前に面白半分にあんなことをすると思いますか?」「後悔はしていない。後悔をすれば、彼(マテラッツィ)の行動を認めることとなってしまう」と語り、頭突きをした行為自体は後悔していない事も強調した。7月20日、FIFAの規律委員会は、出場停止3試合及び罰金7500スイスフラン(処分当時の円換算で約70万円)の処分を決めた。ただし、出場停止処分については、彼自身がすでに現役引退を表明しているため、社会奉仕活動3日間の義務付けとなった。(→ジダンの頭突き問題を参照)

当初、その背景にはアルジェリア移民2世であるジダン自身への人種差別によるものや、のちにマテラッツィがジダンの家族を侮辱したことが原因であるとも言われたが、同年9月5日のイタリアの新聞、ガゼッタ・デロ・スポルトのインタビューでマテラッツィが「ユニホームよりもお前の姉妹(sister)の方が欲しい」とジダン側に言ったと明かした。

(引用:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%80%E3%83%B3)



本当に残念な事件だった。もっとジダンのプレイを見たかった。宇宙人と評される軽やかなボールさばき。仲間思いを表現する、柔らかい、最高のパス。フランス大会時に、ブラジルを粉砕した、ヘディングシュート。完璧な、至高のサッカープレーヤー、ジダン。

その彼が、相手選手への頭突きで、その選手生活を終えるなんてショックだった。そして、フランスは負けた。ブッフォンは最高のキーパーだし、イタリアのほうが総合力で上だった。だけど、ジダンがいるから、なにかしらの可能性を感じることが出来る。ジダンとはそういう選手だ。彼の退場で勝負は決まったようなものだった。

が、しかし。妹を侮辱されたなら、自分なら、どういう態度を取るだろうか。選手である前に、ジダンだって人間なのだ。

ジダンは世界の子供たちに謝る必要など全くない。大切な人を侮辱された時、ひとりの人間として、どういう振る舞いをするべきか、世界の子供たちに教えて、ジダンは去った。

いちサッカーファンとして、拍手をもって、彼の退場を見送るべきだったと、今は後悔している。

Sunday, February 11, 2007

情報の伝達速度と、その吟味のために

先ほど、NHK衛星で面白い番組がやっていた。You Tubeに掲載される”テロリスト”が投稿する映像の発信元を追跡する、テロリスト・リサーチ・センターについて。なんでも、テロリスト・ハンターなるものがいて、インターネット上にテロリストが投稿する映像を定点観測しているようだ。

最初に、断っておくが、制作したのはNHKではない。NHKに、こんな取材をする力などなく、いつものようにBBCから番組を買って、翻訳し、編集しただけだ。それを情けなく思いながら、本稿を進める。

プロパガンダという言葉がある。ナチスがその行為を美化し、宣伝するために、ヒトラーの演説を映像で流布させたのもそのひとつ。

>>>
プロパガンダ(Propaganda)は特定の思想世論意識行動への誘導を目的とした宣伝である。心理戦の技術の一つであり、しばしば政治的な内容を持つ。ラテン語のpropagare(繁殖させる)に由来する。
(引用:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80)
>>>


たとえば、ラムズフェルドやブッシュの演説を流布させることも、ひとつのプロパガンダだ。

”テロリスト”の投稿する映像もプロパガンダである。

瞬時に、数百万人が、処刑映像にアクセスする。恐怖を煽る情報戦。この番組では、イルハービ007という人物が、映像の発信元と特定され、そしてユノス・トゥーリという人が、イルハービ007であるという容疑をかけられ、今春には裁判が始まるらしい。

いくつか、疑問点があった。イルハービ007は個人なのか、団体なのかすら、分からない。

そして、映像、及び、情報の真偽というものをどう判定すればいいのか、ということを考えてしまう。

さしあたって、比較という手法が考えられる。ひとつの事象についての情報を、比較吟味する。たとえば、イラク戦争。これをアメリカ側からの視点、イラク側からの視点で見つめる態度。これが必要なように思う。これは言うまでもないことで、ある程度のメディア・リテラシーがあるのなら、誰でも取りうる態度だろう。



>>>
メディア・リテラシー(英:media literacy)とは、情報メディアを批判的に読み解いて、必要な情報を引き出し、そのを見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」とも言える。ただし「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もある。なお、この項では主に、「情報を評価・識別する能力」という意味のメディア・リテラシーについて記述する。

まず、情報には、
一つの物事(物、人物、集団、出来事等)についての捉え方は、個人あるいは集団によってそれぞれ異なる。
その為、その物事に関する情報も、その情報の発信者(語り手や各種メディア等)がその物事について、どのような捉え方をしたかによって様々な影響を受けてくる。
つまり、一次情報といえども、必ず何らかのフィルターを通ってきているものであり、まったく方向性を持たない情報は無いという事である。
また、情報を意図的に改変・誇張して発信する(情報操作)事により受信者(聞き手、読者、視聴者、世論等)の考えを一定の方向に誘導する事も出来る。
一つ一つの情報は正しくても、それらが集合することによって異なった意味を持つことがある。


その情報は信頼できるかどうか
を判断する事はもちろんの事、
その情報にはどのような偏りがあるか
さらに一歩進めて、その情報を発信した側にはどのような意図・目的があるか
(つまり、なぜ、わざわざ、そのような情報を流したのか、なぜ、そのように編集したのか、を考えること)
等を始め、各種の背景を読み取り、情報の取捨選択を行う能力が求められる。そしてこれが、先の「情報を評価・識別する能力」となる。

(引用:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC)
>>>

しかし、真偽の判断というのは、極めて時間がかかる。あるひとつの犯罪事件の、有罪無罪の判定には、何年もかかる。真実を写すと思われている写真というものも、今では巧妙に合成できるようになってしまった。

では、いったい何を手がかりにすればいいのだろう。何を信頼すれば?

さしあたって、ぼくは”痛み”というものを考えている。ことの真偽はさておき、どれだけ肉体的実感を持った痛みを感じることができるか。自分の身体をナイフでえぐられるまで気づかないほど、人間は愚かではないはずだ。痛みというものを、自身の感覚と記憶を全開して、感じようとする態度。ただ耳を澄ますこと、目を逸らさないこと。

嗅ぎ、味わい、触れ、そして、考える。

隠し切れない”痛み”や、やりきれない嘆きというものが、どれだけ切実に迫ってくるか。

小さいころに転んだことを思い出してほしい。膝小僧にできた、擦り傷の痛み。

では、地雷を踏んだら、どれだけ痛いのか。踏んだ人はこう考えないだろうか。なぜ、この地雷は、こんなところにあるのか。

感覚と記憶を全開する。

しぐさや、ふるまいや、声のトーン、まなざし。
その人間存在のすべてに対して。

たいして新しくもない、古くからの人間としての、最低限の想像力が、只今求められているのは間違いない。

ドキュメンタリーとフィクションの違いを超えて、人間は存在する。