Sunday, February 11, 2007

情報の伝達速度と、その吟味のために

先ほど、NHK衛星で面白い番組がやっていた。You Tubeに掲載される”テロリスト”が投稿する映像の発信元を追跡する、テロリスト・リサーチ・センターについて。なんでも、テロリスト・ハンターなるものがいて、インターネット上にテロリストが投稿する映像を定点観測しているようだ。

最初に、断っておくが、制作したのはNHKではない。NHKに、こんな取材をする力などなく、いつものようにBBCから番組を買って、翻訳し、編集しただけだ。それを情けなく思いながら、本稿を進める。

プロパガンダという言葉がある。ナチスがその行為を美化し、宣伝するために、ヒトラーの演説を映像で流布させたのもそのひとつ。

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プロパガンダ(Propaganda)は特定の思想世論意識行動への誘導を目的とした宣伝である。心理戦の技術の一つであり、しばしば政治的な内容を持つ。ラテン語のpropagare(繁殖させる)に由来する。
(引用:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80)
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たとえば、ラムズフェルドやブッシュの演説を流布させることも、ひとつのプロパガンダだ。

”テロリスト”の投稿する映像もプロパガンダである。

瞬時に、数百万人が、処刑映像にアクセスする。恐怖を煽る情報戦。この番組では、イルハービ007という人物が、映像の発信元と特定され、そしてユノス・トゥーリという人が、イルハービ007であるという容疑をかけられ、今春には裁判が始まるらしい。

いくつか、疑問点があった。イルハービ007は個人なのか、団体なのかすら、分からない。

そして、映像、及び、情報の真偽というものをどう判定すればいいのか、ということを考えてしまう。

さしあたって、比較という手法が考えられる。ひとつの事象についての情報を、比較吟味する。たとえば、イラク戦争。これをアメリカ側からの視点、イラク側からの視点で見つめる態度。これが必要なように思う。これは言うまでもないことで、ある程度のメディア・リテラシーがあるのなら、誰でも取りうる態度だろう。



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メディア・リテラシー(英:media literacy)とは、情報メディアを批判的に読み解いて、必要な情報を引き出し、そのを見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」とも言える。ただし「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もある。なお、この項では主に、「情報を評価・識別する能力」という意味のメディア・リテラシーについて記述する。

まず、情報には、
一つの物事(物、人物、集団、出来事等)についての捉え方は、個人あるいは集団によってそれぞれ異なる。
その為、その物事に関する情報も、その情報の発信者(語り手や各種メディア等)がその物事について、どのような捉え方をしたかによって様々な影響を受けてくる。
つまり、一次情報といえども、必ず何らかのフィルターを通ってきているものであり、まったく方向性を持たない情報は無いという事である。
また、情報を意図的に改変・誇張して発信する(情報操作)事により受信者(聞き手、読者、視聴者、世論等)の考えを一定の方向に誘導する事も出来る。
一つ一つの情報は正しくても、それらが集合することによって異なった意味を持つことがある。


その情報は信頼できるかどうか
を判断する事はもちろんの事、
その情報にはどのような偏りがあるか
さらに一歩進めて、その情報を発信した側にはどのような意図・目的があるか
(つまり、なぜ、わざわざ、そのような情報を流したのか、なぜ、そのように編集したのか、を考えること)
等を始め、各種の背景を読み取り、情報の取捨選択を行う能力が求められる。そしてこれが、先の「情報を評価・識別する能力」となる。

(引用:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC)
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しかし、真偽の判断というのは、極めて時間がかかる。あるひとつの犯罪事件の、有罪無罪の判定には、何年もかかる。真実を写すと思われている写真というものも、今では巧妙に合成できるようになってしまった。

では、いったい何を手がかりにすればいいのだろう。何を信頼すれば?

さしあたって、ぼくは”痛み”というものを考えている。ことの真偽はさておき、どれだけ肉体的実感を持った痛みを感じることができるか。自分の身体をナイフでえぐられるまで気づかないほど、人間は愚かではないはずだ。痛みというものを、自身の感覚と記憶を全開して、感じようとする態度。ただ耳を澄ますこと、目を逸らさないこと。

嗅ぎ、味わい、触れ、そして、考える。

隠し切れない”痛み”や、やりきれない嘆きというものが、どれだけ切実に迫ってくるか。

小さいころに転んだことを思い出してほしい。膝小僧にできた、擦り傷の痛み。

では、地雷を踏んだら、どれだけ痛いのか。踏んだ人はこう考えないだろうか。なぜ、この地雷は、こんなところにあるのか。

感覚と記憶を全開する。

しぐさや、ふるまいや、声のトーン、まなざし。
その人間存在のすべてに対して。

たいして新しくもない、古くからの人間としての、最低限の想像力が、只今求められているのは間違いない。

ドキュメンタリーとフィクションの違いを超えて、人間は存在する。

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