Monday, March 20, 2006

1980年代~21世紀初頭

ひとつの仮説として、21世紀に人類が滅びるとしよう。これはそもそも仮説ではなく、現在では多くの人が薄々感じているのではないかと思う。特に911からイラク戦争開戦以後にかけて取り返しの付かない愚考と愚行が繰り返されている。といっても、私はテロリストを批判しているのではない。私は以下のフランスの映像作家、ジャン・リュック・ゴダールの意見に賛同する。

Q:オルガの自殺は最近の自爆テロを連想させずにはおきません。

ゴダール:もちろんそのことも考えました。中東だけでなく、たとえばスリランカの情勢のことも。最初の「地獄編」に首を斬られた若い女性の映像が出てきますが、あれもスリランカの映像です。このところ、新聞での自爆テロの報道を読んで、報道の仕方が間違っているとずっと思っていました。メディアは自爆テロを犯罪として扱っている。アムネスティ・インターナショナルも、人間性に対する犯罪とみなしている。私はそうは思わない。ただ、作品の中で描くにあたっては、平和のためにわが身を捧げるギリシャ悲劇のエフゲニーのような、無償の犠牲にしたいと思いました。私自身も、よく自分に問いかけます。自分には自爆するテロリストと同じことができるのだろうかと。結論は、この映画のオルガと同じようなやり方だったら、きっとできるだろうということです。彼女の鞄には爆弾ではなく本が入っていて、でも状況から判断して人々はそれが爆弾だと思いこむ。そのリスクを追う気にはなれると思う。アガメムノンに従ったエフゲニーがリスクを負ったようにね。あるいは旧約聖書のイサクのように。誰もがかわいそうなイサクを無視してアブラハムのことばかり話すのですが、刃をつきつけられていたとき彼は何を考えていたのか、時々想像してみるんです。私が願うのは、自分を犠牲にするときに、自分と行動をともにしてくれる誰かがそこにいてくれることです。でも、映画を見てもわかるとおり、おそらく最後の時には誰も一緒にはいてくれないだろう、というのが私の推測なのですが。私がイスラエル人だったら、きっとパレスチナ人と同じことをするでしょう。でも実際には彼らは、飛行機だの爆弾だので武装して、遠くからパレスチナ人を爆撃している。自爆するテロリストは操られているという人もいます。でも、実際にはもっと簡単なことではないでしょうか。9.11のテロリストもそうですが「もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる」と彼らは思っている。そこがオルガ、つまり私との違いです。もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる、というのが私の考え方です。ジャンヌ・ダルクもおそらく同じことを考えたはずです。映画の中でジャンヌ・ダルクの映像を引用したのはそれが理由です。
以上 http://www.godard.jp/ourmusic/ourmusicinterview.htm より引用

私のような1980年代生まれには、未来に希望を持てるような瞬間はなかった。10歳で冷戦崩壊が訪れ、その後に待っていたのは湾岸戦争、さらに10年経た後のイラク戦争なのだ。高度経済成長期のように「明日になれば生活がよくなる」というような幻想もない。逆に大人に対する恐ろしいほどの幻滅と日常への異様な倦怠だけがあった。小学校のときには、環境問題が刷り込まれた。地球温暖化や様々な公害、原発事故、果ては核兵器の使用を経て、人類は危機的な状況を迎えるだろう。実際、核兵器は分散の傾向にあり使用の可能性は高まっているとの指摘があるが、問題は地球を何度も破壊できるエネルギーを、人間という極めて不安定な存在が手にしてしまったということだろう。戦争による核爆弾の使用例は広島と長崎だけだ。中学生のときに長崎への修学旅行があり、私はクラス委員だったので被爆者の語りを聞く会の司会をした。残念ながら全く内容は覚えていない。中学生の私には原爆が炸裂する光景やそこで人がどんな風に死んでいったかなど現実として受け止めることなどできなかっただろう。もしくはそのような不快を催す内容は記憶の底に沈んでいるのだろう。とはいえ「原子力」という一般人には測ることすらできないエネルギーが日本においてはマイナスのイメージを負ってはいるものの、他の国では希望をもたらすものなのだろう。インドもイランもパキスタンもよく報道されるが、世界中どの政府も原子力が欲しくてたまらないようだ。石油が枯渇しつつあるのだろう。しかし原子力などコントロールできるものなのだろうか。一瞬にして数万人の命を消し飛ばしてしまうものが。

地球資源の最大の浪費である戦争や日常的な大量消費を繰り返し、挙句の果てには極めて強引に戦争をしなければならないほど石油という化石燃料を燃やし尽くしててしまった21世紀初頭。温暖化という人為テロが私の未来に闇を落とす。その温暖化の原因は今現在私が使っているパソコン、もしくは暖房器具にエネルギーを通す必要があってのことだが、安定的にエネルギーを供給する手段は石油しかないというのならそれは嘘だ。30年前、オイルショック時にクリーンなエネルギーに代替すべきだと言う議論があった。しかし、国際石油資本の反対に遭い、石油を使い続けると言う選択肢を選んだのだ。一体誰がそんな馬鹿げた選択を指示し実行したかは知らないが。日本では高校生4人組がホームレスに火炎瓶を投げつける事件があったが、投げつける相手が間違っている。教師たちは「怒り」の正当な利用方法について教授した方がいいのではないのだろうか。決定を下す人には責任が伴う。怒りを抱いて子供を攻撃するのも間違っている。どうせなら、いやいっそのこと温暖化という間違った決定を下した責任者に火炎瓶を投げつけるべきなのだ。

決定者の責任に火炎瓶で答えることぐらい論理的に許されてもいいはずだ。なぜなら石油の枯渇=過剰な使用が石油の需要を生み、石油の需要が中東の民主化=石油工場化を必要とし、その工場を作るための古い工場=フセイン体制の解体がイラク戦争だったのだ。そして石油のためなら人を殺してもよいことになったのなら、その決定者も同様の仕打ちを受けることを引き受けると言うのが、決定者の責任なのである。原爆を落とすことを決定した者は必然的に復讐を招くはずである。石油工場建築を邪魔する人間は殺してもよいことになった。殺す者は必然的に復讐を招く。それが21世紀初頭の現実なのだ。しかし「戦争」という言葉は21世紀において、決定的に曖昧になってしまった。進行しているのは、たんなる石油工場建設=他人の土地略奪=邪魔な周辺住民虐殺なのだ。「内戦」というのも正確な表現ではない。進行しているのはたんなる「代理虐殺」である。では、一体誰の代理なのか。アメリカ?ロシア?フランス?イスラエル?イギリス?日本?トルコ?イラン?これらは国名であって人の名前ではない。考えてみれば、誰の代理なのか?

言うまでもなく、石油に依存しているこの私の代理なのである。

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