Saturday, January 13, 2007

『サラバンド』

ベルイマンの映画について考え続けている。今、この日記を綴るにあたって、どの人称を選択すべきかも分からない。俺、ぼく、私、のいずれを使うべきかということ。それほどの混乱を『サラバンド』には与えられた。英語の「I」にあたるものが日本にあれば、と思うことがある。人称に従い、自分の人格を仮構すること、もっと正確に言えば、他なるものに対して、どのような位置をとるか、日本においての他者との関係性は人称に如実に現れる。このあたりに、ラカンが「日本人には精神分析は不要だ」と指摘した秘密があるのだろう。カタカナとして諸物の外来性を保存し、近代概念は漢字という外来文字で表す。とても柔軟で、なおかつ排他的な言語を駆使して、ベルイマンを綴ることができるのだろうか?

私は、「私」を選択することにする。ベルイマンは自らの私的体験を、普遍性にまで昇華させた男だ。彼を語るには私がふさわしいような気がする。そもそも、なぜ、あれほどの衝撃を私は受けたのだろうか?

プロローグ
『サラバンド』は今まで自分が観たことのない映画だった。それは導入部からして、そうだった。机にうず高く積まれた写真の山のカット。そこから、人物に下降する。写真を用いて、リヴ・ウルマン扮するマリアンがカメラ目線で、自らの人生の遍歴を語りだす。ぎこちない、されどストレートな演出だと思った。この映画には何か重要なメッセージが込められている。そう思わせるような。そして、その重要なメッセージを孕んだ事件に、ひとりで対峙せねばならない覚悟をも喚起する。さしあたって、ベルイマンがこの映画を最後に、もう二度と映画を作らない遺言状としての作品だということは知っていたので、このカットにて、画面と映画館に緊張が走るのが分かった。マリアンは自身の娘の生活ぶりを語り、別れた夫を懐かしみ、衝動的に彼に会いに行く計画を観客に告げる。30年ぶりに。

第1章、「マリアン、計画を実行に移す」

ヨハンとマリアンの再会について。
マリアンが森深くにある、ヨハンの別荘を訪れる。空き巣のように、忍び足で。別荘に入り、しばらくヨハンの生活ぶりを観察するマリアン。ここでもカメラに向かって語りかけてくる。テラスで昼寝するヨハンをマリアンが見つける。窓越しにヨハンを眺めるマリアン。彼女はここで、ヨハンに声をかけるか、このまま立ち去るか戸惑う。沈黙の1分を観客に強いる。扉を開け、寝ているヨハンにキスする。かつてのふたりの親密さが会話の中で再現される。ヨハンは立ち上がり、「抱きたいんだ」といってマリアンに近づく。「あなたと私が抱き合うの?あなたったら・・・。年を取ってもおバカさんね」。そういって二人は抱擁する。

もうこのシーンから、涙を止めることができなかった。これは何なのだろう。この画面に顕れる親密さは。

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