Friday, January 05, 2007

原爆日記

面白い記事があったのでメモしておこう。失敗してよかった、と思う。歴史はやはり面白い。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070105k0000e040072000c.html
原爆日記:旧理研研究者が残す 終戦直前開発断念の記録 
万年筆で几帳面に書かれた山崎さんの日記。毎日のように空襲があったことが読み取れる
 戦時中に旧理化学研究所(東京都文京区、現在の理研)で原爆を研究していた物理学者の日記が見つかり、近く発刊の「仁科芳雄往復書簡集・第3巻」(みすず書房)に掲載される。原爆製造に必要なウラン235の濃縮に失敗し、開発を断念する様子を克明に記した貴重な記録。研究に関する記録は終戦直後「原爆を造っていたことがわかれば死刑になる」とのうわさからすべて焼却されたとされており、関係者からは「よく残っていた」と驚きの声が上がっている。
 筆者は、旧理研の仁科博士の研究室でサイクロトロン(イオン加速器)の建設や原爆研究に携わっていた山崎文男さん(1907~81年)。旧理研での原爆研究は43年1月にスタートした。日記は終戦間際の45年1月から8カ月間、ほとんど毎日書かれていた。神奈川県鎌倉市に住む長男和男さん(67)が保管していたが、山崎さんと一緒に研究した元理研副理事長の中根良平さん(85)が、書簡集の編集に携わる中で原爆開発に関する記述があることに気づいた。
 日記は45年4月、ウランの濃縮を試みた「熱拡散塔」のあった49号館が空襲で焼失した日の模様をつづっている。これを機会に旧理研の原爆研究は難しくなった。
 <4月14日(土)11時頃(ごろ)空襲サイレン。(中略)理研にゆく。49号館を守る可(べ)く敢闘。23号館で休。夜があけて東側の壁が燃え出し、もう消火の元気なくただ見守る>
 焼失前にその塔で濃縮作業をした最後のウランは5月、サイクロトロンで分析された。
 <5月10日(木)午後U(ウラン)の測定を続ける。negative(失敗)である>
 サイクロトロンで高速の中性子を当て、出てくるベータ線の量に変化があれば濃縮は成功であることを示し、日本の原爆研究は大きく進むはずだった。しかし、ベータ線の量は誤差の範囲に収まっていた。
 中根さんは「山崎さんはnegativeという一言で表現したが、かなりショックだった。私も40時間かけて不純物を取り除いたし、これがダメならすべて終わりだったから」と語る。この測定を最後に、日本の原爆研究は事実上終止符が打たれた。
 中根さんは「私自身も終戦直前、実験日誌をすべて焼いてしまった。山崎さんの日記を読むと当時の苦労が思い出され、感慨深い」と話している。【中村牧生】
毎日新聞 2007年1月5日 15時00分

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